余談なのですが、
改めていろいろ調べてみてビックリしました。
平安時代から、般若心経の利益で病気が治るという信仰があったらしいです(@_@;)
(Wikipediaより)
般若心経=抗生物質
という私の説はあながち間違いじゃないってことですね。
あっもしかしたら有名な話だったりして?世間知らずだったらすいません^^;;
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前の記事はこちら
さて、
なぜ般若心経ではなく六根清浄なのか。
両方とも宇宙の真理を説いた文章です。
あくまで私の解釈ですが、なるべくわかりやすく書いてみますと・・
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【般若心経(はんにゃしんぎょう)】
苦はない、ゆえに苦になる原因もない
悩みなどはいつか解決できるので、
先に答えを得てしまおう。
邪鬼を根絶させる方法はいつか見つかる。
いつか見つかるということは、「すでに在る」ということ。
悩み苦しむ必要はない。
ゆえに目の前に邪鬼はいないので、何もする必要はない。
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【六根清浄(ろっこんしょうじょう)】
苦はあるが、とどめおかない
目・耳・鼻・舌・身の五感と意識は邪鬼を捉え、おぞましき姿を認識している。
だが、
心にその姿を焼き付けてはいけない。
邪鬼はいる。認識して、流す。
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このような感じではないかと。
般若心経は感覚の世界なので、理解できる人はすんなりできるだろうし、
ちょっと何言ってんだかという人もいるかもですが、
いずれにしても、
かなり高度なテクニックだということはわかっていただけるかと思います。
扱いを間違えると
「あるのに、ない、と思い込むだけ」
=問題を見ず、全く問題がないと思い込もうとする
という状態になります。いわゆる現実逃避。お花畑です。
つまり、私はまだ未熟モノなので般若心経は扱えない、ってことなんですね(^^;;)
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そこで六根清浄です。まず、五感と意識をもって
悪を悪としっかり認識すること
これが本当に大事なのです。そしてさらに大切なのは
悪を心に住まわせない
ということなんですね。
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なぜ、いきなり六根清浄が出てきたのか・・
十数年前、とても辛くて辛くて辛かった時、
行者が修行で山登りをするときに六根清浄を唱えるという話を知り、
現代語訳を読んでとても感動したので、時々音読をしていました。
不思議と心が清々しくなるのを感じていました。
ずっと忘れていたのに・・思い出しました。
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夢の中の自分は一瞬の判断で立ち回ってるので
かっこええなあ〜!って感心します(笑)
夢は夢、と片付けるのは簡単ですが、
夢のおかげで認識できることもあります。
私にとっては学びの場でもあります。
光がくっついてます(・・ただし条件付き)(2017.08.13)
※六根清浄に興味のある人は図書館などで調べてみてくださいね。
また、これはある人から聞いた話ですが、
お経等を一般人が場所を問わずどこでも唱えるのはキケンなのだそうです。
特にある体質の人はやめたほうが良いようです。
心を整えるためにお経を使われる方もいらっしゃるかと思いますが、
無防備に唱えるよりも、その意味を理解しようとつとめ、
今ここの現実をしっかり見つめて対処していくほうがよほど大切だと思います。
<2020年10月30日追記>
邪鬼退治は特別な能力は必要ありません。
誰にでもできます。っていうか、やってください。
一番簡単な方法は、前述した通り、
・悪を悪と認識すること
です。(悪=人の貴重な時間を奪うものすべて)
「悪」は自分一人では成り立たないので、とにかく人と関わろうとします。
人間にとって「悪」になるものは野蛮な獣のようなイメージかもしれませんが、
実際は違います。めちゃめちゃ頭がいいし、魅力的。
なぜなら、見た目からしていかにも「悪」であれば誰も寄ってこないからです。
邪鬼も赤ちゃんのような姿なので、うっかり『情』が湧いてしまうと負け、ってことですね。
(「ツァラトストラかく語りき」のラストでも情に左右される罪を語ってます!)
本当の善人は、いるのかいないのかわからないくらい自然体なのではないでしょうか。
私は善人ではないので知らんけど(爆)