鴨長明「方丈記」から読み取る「孤独」

今、私が考えてることはきっと誰かも同じように考えているのだろうと思い、
ざっくりとネット内を調べたりしましたが、

 

見つからない(;´д`)ゞ

 

もちろんネット上の知識情報なんて上っ面しかないのだから
もっと深く、研究書等も探せば見つかかもしれません。

 

しかしながら、
「方丈記」=「ひとり生活を楽しく♪」と解釈してる記述が目立つのは気のせいでしょうか。
(一時的な流行なのかもしれませんが^^;)

 

私は鴨長明がどのような人物で、どのような人生を歩んできたのか
(昔の人なのだから)正確には知る由もないわけですが、
「方丈記」を読んで私が感じたことを記載します。

 

もちろん私は研究者ではないので、私の解釈が歪んでるのかもしれない。
しかし、私のような一般ピーポーが解釈することもまた真実と言えます。

 

と、いうことを念頭においていただいて(っ´∀`)っ

 

 

↓方丈記の現代語訳はこちらを参考にしました。

学ぶ・教える.com「方丈記」

 

 

(一)から(九)まで、
作られては消えていくものについて淡々と語っています。
仏教でいうところの諸行無常ですね。

 

(十)からは
権力者とそれに使える者の人間観察。

 

(十一)くらいから、
我が身のことでちょっと愚痴が出てくるわけですが
(苦労されていらっしゃるので)
いやいや、それもまた気楽で良い♪
と、自己肯定が始まり、

 

(十二)(十三)あたりは
僧らしい落ち着いた描写で


(十四)は実に楽しげで

 

(十五)でさらに静かな独り暮らしを肯定、

 

(十七)で、
ここで初めて「粗末な自分を恥ずかしいと思うが…」と、本音がちらり。
(誰かに何かを言われたんでしょうか??)
でもそれを打ち消すように説教で締めくくり。

 

最終章(十八)で、がらっと様子が変わる。(と、私は思いますが)


「権力に翻弄される愚かさについていろいろ書いてはみたが、
それって、私が貧乏だからひがんでるのか??」


と、自分のなかのコンプレックスに気付いてしまい、


「何が真理なのかわからなくなった」
「念仏を唱えてはみたが、全然心が安まらない。」


結果、
「これ以上、書けない。」

 

 

 

…どうでしょうか。

私の解釈は歪んでますか?(;´д`)ゞ

 

冒頭の「ゆく川の流れは…」は教科書にも載ってるので有名ですし、
天災の記述は歴史的資料としても貴重です。

 

でも、一番大事な部分(鴨氏が本当に言いたかったこと)は、
この最終章じゃないかと思います。

 

鴨氏が生きていた時代の宗教観は想像するしかないですが、
貴族のみなさんが良いように解釈した、
仏陀の教えからは、伝言ゲームのように
すっかり曲がった解釈で語られた宗教感だったのでしょうか。


少なくともこの時の鴨氏は
信じていた仏教では救われなくなっているよう。

 

独りで好きなようにやってるときは穏やかでいられるが、
少しでも都のことを思い出すと、
ついつい今の暮らしと比べてしまい、こころがざわついてしまう。
人間的、あまりに人間的。(*´ω`*)

 

この『方丈記』を、
ミニマリストとして暮らす孤独な老人のお気楽生活♪
という捉え方もいいんですが、

私は、

 

思った通りの人生を歩めなくて、
すんごいさびしくって、
それを認めたくなくて、
必死に冷静を装って自己肯定していた。

 

めっちゃロックな感じに読み解きました。


鴨長明氏は、方丈記を書いた後、没するまで、どのような心境で毎日を過ごされたのでしょうか。
晩年に書かれた『発心集』という著書があるそうですが、
どうやら原本すべては現存しないようです。

 

まあ、こうしていろいろ勝手に解釈させていただいたわけで、

「方丈記」と私の人生を重ね合わせての解釈なんですよ。結局は。

ああお恥ずかしい。ヽ(;▽;)ノ

鴨長明さま、すいません!

 

『煩悩や執着は罪』ではなく、

『煩悩や執着はないほうが楽♪』という、

『あるがまま』のこころは………

芯から理解できればずいぶん楽になるのだろうなと…

私も没するまで修行………かヽ(;▽;)ノ


冬至と方丈記と人生論と引きこもりと晩年(2016.12.23)

 

カテゴリ:この本、読んでみて! | 16:01 | - | - | - |
冬至と方丈記と人生論と引きこもりと晩年

昨日は冬至で、朝、空が不思議な色で、
変な夢みたなあ…と思っていたら
トマトくんも「変な夢見た」と、
しばらくしてセロリちゃんが起きてきて「変な夢見た」と。

 

そんな変な日に、突然「方丈記」が頭に浮かび、
気になって少し調べたらいろいろ発見があって、

今日改めて現代語訳を読んでみました。

 

学ぶ・教える.com「方丈記」

 

遷都、火事や飢饉、竜巻や地震…
翻弄される人民。
そんな過酷な世情を、憂いを含めながら淡々と、
美しい比喩と流れるような文章で綴られています。

 

こういう話だったのね!!(@_@;)
冒頭しか知らなかった〜!

 

ほぼ全編、金持ちに翻弄される庶民への憂いや、
競い合いながら自分を高く見せたがる愚かさ、
そして隠居した自分の独り身の気軽さ、
自然を愛で、いろんな事を深く考え、
念仏を唱えるのがめんどくさくなったらあえてサボる(←いいなあ!これヾ(´ε`*)ゝ)

 

そんなことが書かれています。

 

共感できる部分もあれば、ん?と思う部分もあるなあと思いながら読み進めました。

 

世俗を捨て、粗末な庵に住む自分を肯定し、
都に住む人たちを軽くディスったり(笑)

 

これは、ニーチェ的に言えば「ルサンチマン」っぽいかも?

 

とも思いました。

 

でも。

最後の章(十八)を読んで、

 

うわーーー……………(´;ω;`)

 

となりました。

 

人というのは、
人生の最後まで思い悩み、生きるのか。
世俗を捨て、様々な重い荷物を下ろし、心穏やかに暮らしたとしても、
これで良かったのかと思い悩むのが性(さが)なのでしょうか。

 

隠居生活の記載は(最終章を除き)
「心悩ますこともなく気楽」とありますが、


私には、
「さびしい、さびしい」と読み取れました。

 

最終章も含め、とても人間ぽくて親近感が湧きました。
(あくまで私の解釈です。あの世の鴨氏から「おいおい勝手なことを!」と怒られるかもですが知らんぷり(*´ω`*))

 

作者の鴨長明は身内の反対で希望していた神職の道を閉ざされ、
50歳で出家し、山中に隠居し、
1212年(57歳)に「方丈記」を記したそうです。
そして、1216年に亡くなっています。

 

今年は鴨長明が没して、ちょうど800年なんですね!
(なんかもう、40歳過ぎても知らないことだらけだわヽ(;▽;)ノ)


そしてまた、私の「探求脳」は、
鴨長明の晩年とニーチェの晩年を結びつけて考え始めてしまったのです。

 

年末慌ただしい中、
いちばん苦手な書類仕事をすすめなくちゃいけないのに
現実逃避したがる私の脳をなんとかしてくれいヽ(;▽;)ノ

 

 

カテゴリ:この本、読んでみて! | 11:10 | - | - | - |
他人様の幸せを願う人と不幸を願う人が出会ったら

年末の忙しい時にすごいヒミツを発見してしまった!
忘れないうちにメモメモφ(・ω・ )

 

他人様の幸せを願う人(仮にAさん)と
他人様の不幸を願う人(仮にBさん)

 

出会ったらどうなるでしょう。

 

私はこう考えました。

 

==========================

 

Aさんは、Bさんの幸せを願っています。


Bさんは、Aさんの不幸を願っています。

 

 

そこでAさんは、Bさんが幸せになるように、
自ら不幸になることにしました。

 

 

Aさんが不幸になることで、Bさんは幸せを感じました。

 

AさんはBさんが幸せになることで、自分も幸せになりました。

 

 

しかし、Aさんは

 

幸せを感じてはいけないと考えました。


不幸でいなくては、

 

Bさんが幸せでいられないからです。

 

 

ここにパラドックス(矛盾)が生じてしまいました。

 

 

そこでAさんは、


本当に不幸になろうと努めました。

 


一切、幸せを感じないように、
自らの心を閉じ込めました。

 

 

Bさんは幸せになりました。
不幸なAさんがそばにいるのですから。

 

 

そしてAさんは、本当に不幸になりました。

 

==========================

 

これ、いつか絵本にしたいなあ*:.。. (*´ω`*).。.:*・゜

 

こんな人いるわけないじゃん!
と思われるかもしれませんが…

 

気付いてないだけかもしれません、
自分がAさんだと。
またはBさんだと。

 

ここに出てくるAさんは、
本当に純粋に他人様の幸せを願っている人です。

 

誤解されるといけませんが、
Bさんは悪い人というわけではなく、
ただ、そういう人なだけです。

 

Aさんは、
不幸になるように努めていますから
意識してるしてないに関わらず、
不幸な状況を自ら選びます。
当然不幸になります。

 

そしてたとえBさんから離れたとしても、
「不幸」が当たり前になってるAさんは、
またBさんのようなタイプと巡り合うことになり、
Aさんのように純粋に他人様の幸せを願う人とは
出会えなくなります。
(出会っても信用できなくなります)


そしていずれAさん自身も
Bさんのように人の不幸を願うようになっていくかもしれません。

 

そう!
Bさんも、もともとは

Aさんだったかもしれないのです。

 

「幸せになること」に対して
抵抗感や罪悪感を抱えている人は、
もしかしたらAさんのような理由だったりするかもしれません。


Aさん、
おつかれさま。
自ら選んだ道とはいえ、大変でしたね。
もういいんじゃないでしょうか。

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